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清酒

酒の神様 野白博士

◆「御国酒(おくにざけ)」と「旅酒(たびざけ)」
 明治三十六年(1903)、東京高等工業(現東京工大)の応用化学科を主席で卒業したばかりの若き鑑定官が熊本税務監督局(熊本国税局の前身)に赴任してきた。
それが野白博士と熊本の酒との始まりだった。
爾来五十余年、明治、大正、昭和にわたって品質向上、酒造業の発展に大きく寄与することになる。
 当時の熊本は「赤酒王国」であった。赤酒は灰持酒とも呼ばれ、清酒のように火入れをせずとももろみに木灰を入れるのが特徴。これで腐敗を防ぎ、古酒になると灰に含まれアルカリ性によってぶどう酒のような赤い色になる。とろりと甘い味わいで、今はもっぱら正月のお屠蘇や料理のみりん代わりとして重宝されている。
 赤酒は加藤清正が朝鮮の役で製法を持ち帰ったと伝えられる。
それはともかく清正以来三百年、熊本の酒といえば「御国酒」と呼ばれた赤酒のことであった。それが明治になると藩制の規制が解かれ、さしもの赤酒王国もピンチを迎える。
 西南戦争の影響も大きかった。戦乱で酒造場が打撃を受けたのに加え、官軍の兵隊たちと共に県外酒のいわゆる「旅酒」がどっと流入してきたのだった。
 この赤酒から火持清酒への転換にあたって指導力を発揮したのがほかならぬ野白博士であった。技術指導や酒蔵改善に労を惜しまず蔵元巡回を続けた。そこに意思の強さをみることは簡単だが、野白博士を知る人が一様に語る「春風駘蕩」たる人柄も見落とせないだろう。童顔をほころばせて淳淳として説く口調に、賛同者が集まり明治四十二年(1909)、全国でまれな組合立の酒造研究所が設立された。熊本の酒造業界が一つにまとまったのだ。

◆野白式天窓
県外酒に追いつけ追い越せ。酒造研究所の存在は県産酒の品質を向上させた。圧巻だったのは昭和五年である。一位、二位、三位の完全制覇の栄に輝く。これで清酒後進県のイメージを払拭し「熊本に名酒あり」の評価を定着させた。
 熊本の酒にとって野白博士はまさに救世主であった。大正六年、その救世主がいなくなるというので大騒動となる。広島の鑑定部長への栄転が発令されたのである。熊本の酒造りがようやく軌道に乗った今、野白博士に去られるのはなんとも痛い。こうなったらもう辞職してもらうしかない。留任運動なら聞いたことがあるが、「野白先生辞職嘆願書」とは前代未聞のことだ。
 結局、先生は広島鑑定部長との異例の兼任を経て二年後、晴れて?退官することになった。前後して酒造研究所は組合立から酒造会社が出資する株式会社に衣替え、研究指導機関であるとともに酒造場という全国でも珍しい形態で再スタートを切った。
 野白博士の考案の一つに「野白式天窓」がある。
酒造りに最も大切な麹室の換気と温度調節に画期的な効果をあげる装置で、全国の酒造場で使用されている。
 このとき新案特許の出願を勧められたが、「そんなことをしたら普及しない。普及しなければ意味がない」と酒造業界全体のことを考えて断っている。まことに営利に恬淡。「酒の神様」と呼ばれるのはなにも熊本に限ってのことではない。

◆熊本酵母誕生から50年
 熊本を一躍「吟醸酒のメッカ」に育て上げた香り高い「熊本酵母」の生みの親としての功績も大きい。かつて酵母はそれぞれの蔵の付着、浮遊している”家付き酵母”を用いていた。しかし、これだと酒質の安定を損なうおそれがある。純粋な優良酵母を取り出すことは酒の品質を高める上で欠かせない。
 野白博士はこの優良酵母の分離・培養の難題に挑み成功する。昭和二十八年(1953)頃のことだ。それから数えて今年(平成15年)はちょうど五十年になる。全国各地の吟醸酒にしても熊本酵母やその系統酵母が多く用いられており、吟醸酒の身元をたどれば熊本に行き着くといっても過言ではない。
 野白博士の後を受け継いだのが萱島昭二専務。野白博士が熊本の酵母の生みの親なら萱島専務は育ての親である。ビーカーやフラスコが並ぶ培養室。萱島専務はここで試験管やシャレーを使って保存していた種酵母から二十~三十種の酵母を選び出す。次に前年のものと比べ、一番いい菌を選ぶ。一つの直径は4~8ミクロン。もちろん顕微鏡の世界だ。仕込みシーズンを迎えると、この熊本酵母を求めて全国の蔵から来訪がある。
 酒造研究所の一隅に萱島専務が「銅像の先生」と親しみを込めて呼ぶ野白博士の胸像がある。その表情はまことに穏やか。「酒の神様」といった厳めしさあ感じられない。視線の先に酒造研究所の蔵が建つ。「新酒の出来はどうかな」と見守っているかのようだ。

                       出典:熊本県・熊本観光連盟発行「くまもとの旅」 季刊 NO.116 2003 

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